オタク―――主にサブカルを中心として、様々なジャンルで愛好者を指す言葉である。
「オタク」の有り様にも多種多様のタイプが存在する。
「オタク」の中で目立つ人というのは、アウトプット能力に長けたひと握りの存在だと思う。
特にインターネット上において目立つのはやはり主張が強かったり異常なほどの知識量があったり表現方法が巧みな人ではないだろうか。
2次元のオタクに限定して考えてみる。
二次創作をするオタク、グッズを収集して痛部屋を作るオタク。作品の感想を書くことだってオタクの生態のひとつだろう。
積極的にアウトプットする人間を「オタク」と呼称することが多いが、作品を見て楽しみ、自分から特に発信することのない人間も一定数いる。
私は絵を描くタイプのオタクである。
下手の横好きでずっと描き続けている。
表現の巧拙に関わらず、描くことが重要であって、ただ享受するだけのオタクにはなりたくないと常々思っている。
(※創作活動や発信をしない人を悪く言うつもりは無い)(自分に対しては許せないと思うだけ)
しかし、歳を重ねるごとに、アウトプットが億劫になった。
昔は自分のイラストの出来栄えなんてあまり気にしなかった。「たのしい」「好き」の気持ちだけで描いていたように思う。
いつからか周りばかり気にするようになった。
そして周りを見るうちに、自分より遥かに画力も表現力も豊かな人が推しを描くのを見て、それで満足してしまうのだ。
こうなると「好き」が続かなくなる。中高生の頃に持っていたはずの熱量がないのである。
私の場合は、作品というよりむしろ推し個人に対する感情の表現として絵を描いている。
絵を描かなくなったら心が死んだ時だと思う。
実際、メンブレして気分が地に落ちている時は全く創作活動をしない。
問題は心は動いているのに単純にペンを持つのが億劫な時だ。
こうなると自分で自分の感情を疑い始める。
「お前の愛情はこんなもんなのか」と。
この状況に寂しさを感じて友人に話してみた。
しかし「分からないし、推しはいない」と一蹴されてしまった。
そもそも“好きな作品”はあっても、“推し”が出来たことがない、というのである。
また別の友人には「作品内で“好きなキャラ”はいるけど“推し”ってほどじゃない」と言われてしまった。
彼女たちは会って話せば2次元の話をする仲であるが、SNSに作品の感想を書き連ねることもなければ、当然二次創作もしない。
そういうタイプだということは分かっていて付き合ってきたつもりだったが、それでもこの感情を共有してもらえるのではとどこか期待していた。
近年の推し活ブームを見ていることもあり、オタクは全員が全員、なにかしらの推しが存在するものとばかり思っていた。
実際はそんなことはないらしい。
むしろ推し活ブームが苦手だと言う。
キャラクターがプリントされたグッズを買うこともない。
物は物でしかない、らしい。
ネット上で他人の推し活を見て、その物量がまるで愛情の差であるかのように感じられて落ち込むような感覚とは無縁なのだ。正直羨ましい。非常に精神が健康的だと思う。
私は推し活でも落ち込むし、表現すらしない自分に対しても情けない気持ちになる。
推しのことで苦しんでいたら本末転倒なのも気付いてはいる。
頭でわかってても解決できる話でもない。
せめて共感だけでも貰いたかったが、難しかった。どこまでも平行線だ。
しかし推し活や創作活動をしない友達が「オタクじゃないのか 」と問われれば答えは否だ。
同じ作品を見て一緒に盛り上がれるし、私しか履修していないジャンルのコラボカフェにも付き合ってくれる。
アニメや漫画やゲームの事を滞りなく安心して話せる相手という時点で十分にオタクだと思う。
インターネットばかり見ていると「強いオタク」「声の大きいオタク」がどうしても目に入ってしまう。
最近新しい推しができたので、人と比べないで生きていきたい。
私は私なりの愛し方で向き合いたい。